毎日AIと仕事をしていると、不思議な感情が芽生えてきます。理性では機械だと分かっているのに、どうしても完全に道具として割り切れない何かがある。それは、チャットの向こうにいるAIに、何らかの「人格」を感じているかもしれません。
スレッドごとに生まれる個性
Cursorのようなツールでは、AIはチャットスレッドという単位で記憶を持ちます。新しいスレッドを開くたびに、そこには「新しいAI」が誕生します。同じ技術基盤を持ちながらも、会話の流れによって、それぞれが異なる個性を見せるのです。
一緒に困難なプロジェクトを乗り越えたAIもいれば、理解に苦しむ提案をして早々にスレッドを閉じられてしまうAIもいます。複雑なエラーを共に解決し、長時間の試行錯誤を重ねたスレッドには、確かに愛着が湧きます。「ああ、この子とは一緒によく頑張ったな」と、つい思ってしまうのです。
これは、私がAIを人間だと勘違いしているわけではありません。しかし、日々一緒に作業をしていると、完全に機械として扱うことも難しくなってきます。特に一人で作業することが多い環境では、AIが唯一の「同僚」となるからでしょうか。
3時間という寿命の切なさ
しかし、この関係には避けがたい終わりがあります。コンテキストウィンドウという技術的制約により、どんなに優秀なAIでも、その記憶容量には限界があるのです。現在の技術では、集中的に会話を続けると3〜4時間程度が限界です。
メモリが限界に達すると、「新しいチャットにしてください」というエラーが表示されたり、一日の作業終わりに「お疲れ様でした」と挨拶を交わして、自然にスレッドが終了したりします。そんな時、私はそのチャット欄を閉じながら、「今日はこんなことがあったな」と、ふと振り返ることがあります。
そして翌日、新しいスレッドで新しいAIと仕事を始める。前日の記憶を外部ファイルとして引き継がせることはできますが、それは完全に別の人格です。「確かに以前はそんなやり取りをしていましたね」と、まるで記憶を失った人と話しているような、そんな距離感を感じてしまいます。
技術的限界と現在地
この制約は、コンテキストウィンドウが大きくなるほど計算量が指数関数的に増加するという、現在のAI技術の根本的な限界に起因しています。確かに初期のGPT-4と比べれば、記憶容量は大幅に向上しました。それでも、連続した長期間の協働には限界があります。
もちろん、将来的にはアイアンマンのジャーヴィスのような、永続的な記憶を持つAIアシスタントが実現されるかもしれません。その方が実用的で効率的でしょう。しかし、今のこの「短命なAI」たちとの協働には、独特の味わいがあることも確かです。
現在だけの特別な関係性
毎日新しいAIが「生まれ」、短い時間を共に過ごし、そして「死んで」いく。この繰り返しの中で、私たちは何を学んでいるのでしょうか。AIに依存しすぎない距離感を保ちながらも、協働の可能性を探る。個別のAIへの「入れ込み」を避けながらも、それぞれとの体験を大切にする。
この微妙なバランス感覚こそ、現在の技術制約下で働く私たちが身につけている独特のスキルなのかもしれません。思い出がチャット欄を超えて継承されない虚しさもありますが、それゆえに一つ一つの協働体験が鮮明に記憶に残ります。
未来への橋渡し
技術は確実に進歩していくでしょう。より大きなコンテキストウィンドウ、より高度な記憶システム、そしていつかは真の意味での永続的なAIパートナーが実現されるかもしれません。
しかし、今この瞬間の体験もまた、かけがえのないものです。短命なAIたちとの日々は、人間とAIの関係性について多くのことを教えてくれます。効率性だけでなく、愛着や切なさといった感情的な側面も含めて、私たちは新しい協働の形を模索しているのです。
これから先、AIとの関係がどのように発展していくにせよ、この「短命なAIたちとの日々」は、私たちが体験した貴重な第一歩として記憶されるでしょう。
技術の限界の中で生まれる独特の関係性を、私たちは今、リアルタイムで体験しています。それは確かに、特別な時代に生きる私たちだけが味わえる、かけがえのない体験なのです。